Basketball Diary

バスケコーチのブログです

心の豊かさは・・・

 

 

こんにちは

 

連日報道されている登戸の殺傷事件や滋賀県での保育園児を巻き込む交通事故など、最近は子どもが巻き込まれてしまう事件や事故が非常に多い印象を受けます。

 

 

私も子どもを預かる身で、こういった事件巻き込まれてしまわないように気をつけたいとしっかりと防犯対策を取らなければいけないなと思いながらも、悲惨な事件を見聞きして、心が張り裂けるような悲しさを感じます。

 

 

もちろん、悲惨な事件の被害者となってしまった人の命の重さは、子ども大人関係なく、尊い命が奪われてしまうことに非常に残念な気持ちで一杯です。

 

 

事件の多くは「社会が悪い」という言葉で片付けられてしまう・・・
秋葉原の無差別殺傷事件も加害者の人格を作り上げた成長環境、その後の社会環境に原因があったと報道されていましたが、今回のように社会のせいで命が奪われてしまうのか?これからは?

といったところを少し書きたいと思います。

 

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今日の記事はバスケットではなく、児童福祉からです。

 

 

 

 

 

 

 

 

今朝のニュース番組で見た今回の登戸での事件。

様々な専門家が加害者の心理や行動を分析して言及している部分が目立ちました。

 

 

また、学校の対策についてや事件が最小限に食い止められることはできなかったのかなど、起こった事柄に対しての分析、検証・捜査の状況など痛々しさや被害者の悲しみが伝わってくる内容でした。

 

 

私が考えているのは、

批判の対象になり得る「学校の対応」については手は尽くされていると思いますし、報道が事実であるなら学校と保護者の信頼関係は確かなものであるということ。

 

ただ、こういった事件が起きたそのあとは今後の対策に追われるのは必然で、これは全国の学校という組織に言えることですよね。

 

 

学校だけでなく、私のように子どもを実際に預かる組織も考えていかなければいけない事件であるということは間違いありません。

 

 

ただ、今一度考えてみると、
教え子が知らない人にいきなり襲われる、人混みのない暗い夜道などでが危険なことはわかりますが、白昼堂々どころか、人が行き交う朝のバス停で、いきなり包丁を振り回されても・・・

 

 

これは現場でどうにかできる事件ではないですよね。

 

 

もし、居合わせた教頭先生に批判が集中するならば、
『身を呈して子どもを守れ』

ということになりますよね。

 

 

 

でも、自分もその立場に立つことを考えてみると
最低限の準備はしなければいけないなと思いました。

 

 

どのように加害者と対峙するか、
そのくらいは考えておきたいと思います。

私は『身を呈して子どもを守る準備』をしておきます。

 

 

 

でも、それ以前に大切なことってありますよね。

 

 

 

こういった事件だけでなく、

今はあらゆる学問の観点から、事件が起きないように分析、研究されています。

 

 

中国はAIを使って犯罪を起こす起因のある人をピックアップしている~なんて噂を聞いたりもします。

 

 

「抑止」「防止」
対策は多くの人がとっていて、なんとか悲惨な事件や事故が起きないように・・・
手を尽くしていると思います。

 

 

 

でも、届いていない。これに尽きると思います。

 

 

 

 

私が一番気になるのは、
こういった事件を引き起こす「犯人」「加害者」生い立ちの報道。

その後の生活の様子に関する報道です。

 

 

 

人が一人で生きていることはないですから、
当然、その人がどんな人であるかやどんな生活を送ってきたのか、どんな環境で育ってきたのかなどが捜査によって明らかになります。

 

 

 

そのコンプレックス問題点に気づいている人がいるということですよね。

でも、手を差し伸べなかったのかもしれないし、受け取らなかったのかもしれない。

 

 

状況までは全くわからないけれど、

小さな問題から大きな問題まで解決できずにいたから「こうなってしまった」と目を背けてはいけない事実が裏側にはあります。

 

 

 

社会に問題がある、という言葉はまさにそこを突くような言葉であると感じます。

 

何も日本全体を急に変えなければいけない、と大きな枠組みでの社会について考えるべきは議員や自治体や役所といった地域を総括している人たちのミッションですけど、人々が直接的に関わっている社会って、その人の身の回りの人間関係や交友関係、環境ですよね。

 

 

 

特に、子どもの頃の発達環境社会環境は多くは選ぶことができないですよね。

 

 

よく言われる、『子どもの貧困問題』で、絶対的貧困相対的貧困という言葉で説明されているように、他者と比べて心が貧しい状態が相対的貧困ですが、こんなものはどこでも生まれてしまうし、それこそ社会的な抜本的な解決を求められたり、関わる大人や人間などが価値観を変えていかなければいけないとは思うのですが、まぁ結論的に環境は選べないですよね。

 

 

でも、こういった事件で感じるべきは、
自分自身が全く関係のない事件でも、ケースのように他人の人生に影響を与えてしまっている可能性があること。
さらに、子どもの頃なんて人知れず相手を傷つけている可能性が大いにあるということ。

 

 

 

この点については、私は子どもの頃から人を傷つけるほうが多かった人間なので教育評論家のように偉そうなことは言えません。

 

 

でも、次世代に伝えていくべきはそういったところなのではないかなと思います。

 

多様的な価値観を認めてあげることや、誰かが誰かの居場所になってあげること、
どんな心を待たせてあげられるかなど、直接事件に関わっていなくても、報道を見聞きしてたくさん考えてみることは、とても大切なことだと思います。

 

 

 

1つ確信していることは、

もし今回の加害者の心が豊かに満たされていたらこんな事件は起きていない。

 

これは誰でもわかることです。

 

 

でも、心を満たすことができるのはきっと自分以外のだれかなんだろうなと思います。

 

 

人間は一人では生きていけない。

最初に書きましたが、多分、その通りだと思います。

 

 

誰かの恩恵を受けて生きているし、社会生活を営んで生きています。

食事だって、食べ物を作ってくれる生産者がいて、出荷をする仲介の業者や運送会社がいて、調理・加工をしてくれる人がいます。

 

 

モノだってなんだって教えてもらうのは人から授かります。

 

 

命だって親から授かるものです。

 

 

この流れの中で外れる人がいではいけないんですよね。

これはどの社会でも言えることで、小さい枠組みや個人の中で
他者に対してどう接していくか、みたいなところは大切にしていって少しずつ環境を変えていくことが教訓なのではないかなと思います。

 

 

 

人間って、一体いつから人を信頼して、人と協力して生きていくのかな?
どうやって他人を大切にしていくのかな?

 

 

そんなことを考えていました。

 

 

 

心の豊かさって何が作るんだろう?

 

 

昨日書いた記事と少し内容がかぶってしまいますが、

人から得られるものを自分の中に落とし込んでいく工程、

 

例えば、『人に優しくする』ことは
自分に余裕がなければできません。

 

 

自分のことで精一杯の時は人の面倒なんて見れないですよね。

指導をしていても、自分にゆとりがなければちゃんとした、向き合った指導ってできないですよね。

 

 

誰に対しても同じで、他人と接するときも自分へのゆとり、余裕は大切です。

ゆとりがないときは身近にいる大切な人ほど傷つけてしまうことがありますよね。

 

 

 

 

心の豊かさは、心のゆとりなのかな??

そんな気もします。

 

 

 

ただ、今回上がっているケースのように

そもそも幼少期に学んでいく心の部分に大きな問題を抱えてしまうケース。

 

そもそも心のゆとりとかそういう度合いの問題ではないですね。

 

例えば、『複雑な家庭で育った』子ども、私はこの表現が好きではなくて、

「複雑な」「困難な」状況って、相対的なものですよね。

だって、そこで育つ子どもはその家庭のあり方が「当たり前」のことで、外との違いをネガティブに捉えていくことなわけで、周囲が勝手に貼ってしまうレッテル=複雑な家庭』というわけです。

 

 

外からの刺激を受け取る前に自分自身をしっかり育まなければいけない、自己肯定感の部分や他者を愛する前に自分をしっかりと愛さなければいけない部分(=まずはアタッチメント:親が愛情を教えてあげるところ)をすっ飛ばして、いきなりハードモードと認識する人生に豊かさなんて存在するのか?考えてみるとわかります。

ありえませんよね。

 

 

承認欲求は過激になり他者への暴力行為に変わる。自分を示す方法がそれしかなければ、そうなってしまう。

人だけでなく、外部、つまり夢中になれる何かと子どもの頃に出会えなければ、どこで自分を認めてあげられるのか、どんな自分を愛するのか、きっとわかりません。

 

 

私もきっとスポーツに出会っていなければ、スポーツを通じて仲間に出会っていなければ、道を踏み外していたかもしれないですし、今は確実に、全然違う人生を歩んでいたに違いありません。

 

 

 

絶妙且つ、人生を支えてくれる出会いもまた心の豊かさを作っていくのかもしれません。

 

 

 

学びこそ自分から探求していく、主体的な活動にはなりますが、
その学びを支えるのは結局周囲にある社会であるということです。

 

 

 

人間が持つ他者への奉仕の心や誰かのためにないかをしてあげたい、優しさは出会いや経験が形成して、社会で発揮されていくものですね。

 

 

そのためには、その行動そのもの価値を見出していかなければいけないですよね。

人の幸せってそれこそ人それぞれですけど、根本的には『誰かのために』という部分があるのではないかなと思っています。

 

 

それが自分かも知れないし、他人のためかも知れないです。

 

誰かのために、というのは少なからず、自分のためだとしても「他者」の存在がありますよね。

関係していると思うんです。

 

自分に目を向けるのにも必ず比較対象だったり、思い描く誰かの像があったり、誰かの思いが繋がりなくしては語れない部分で、「自分だけよければいい」というのも立派な考え方だと思うんです。拠り所が自分の中にあっても、その拠り所を作っているのは他者との関係性ということでしょうか。

 

 

 

『心の豊かさ』
という言葉は、心の余裕だったり、心の拠り所って言えたりもしますよね。

 

心の豊かさ

それを作るのはいつだって周りにいる人なんです。って私は思います。

 

 

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きっと、事件が起きてから
当事者である加害者、加害者の周りの人たちから被害に遭われた人まで、悲しみは消えることなく続いていくことでしょう。

 

 

被害に遭われた方や大切な人を無くされた方を思うと胸が痛くて仕方ありません。

事件にあった子どもたちは一生消えることのない心の傷を負って生きていくはずです。

 

 

心の傷はきっと一生癒えるものではなく、
きっと付き合って生きていかなければいけないのだと思います。

 

 

 

 

他人ごとのように感じられない事件を忘れることなく、

まずは周りの人から、地域の人からみんなでより良い社会を作って行ければ・・・・

いや、いかなければいけません。

 

 

 

事件の起因を取り除くことは誰にだってできます。

まずは周りにいる人を愛するところから、今一度大切にしてゆければいいのではないでしょうか。