「人から学ぶ」ダイバーシティー
現在の日本は、
価値の変革と言われるようにここ数十年で色々な価値観が変化を遂げていますね。
よくメディアで言われる
『最近の〇〇は〜』
と言うフレーズ、最近はあまり聞くことも少ないですが、
(この表現がそもそも物議を醸していると言うのも変化ですよね!)
とにかく色々なことに対しての考え方に新しい視点や角度のアプローチは増えてきていますね。
人工知能などの科学の発達は我々人間の生活をも変えてしまうのではないかと言うほどの革命でもありますよね。
今回はそんな世の中の変化が大きい今の時代だからこそ、人から学ぶことの重要性について少し書きます。
テーマはダイバーシティー、多様性を認める社会に向かおうとしている世の中の風潮についてです。
マイノリティに属している人からのお話を題材に少し書きますね。
まず、ダイバーシティ:多様性について簡単に書きます。
多様性とは
「幅広く性質の異なるものが存在する」
「組織における多様性とは、様々な人材が存在する」
状態で、
様々な人材をマネジメントする必要がある
→大きな枠組みでは、社会的な制度が必要であったり、学校や会社などの組織にはそれ独自のルールが必要だとされていたりしますね。
少し大きなスケールで話すと、
アンコンシャス・バイアスと言う課題もあります。
これは日本語にすると「無意識の偏見」と言う言葉になります。
潜在的に抱いているイメージに影響を受けてしまうことってありますよね。
社会的な問題?として報道されていたりするのは、
LGBTなどの性的マイノリティーや宗教・民族・人種によるものなど、
一般的に"マイノリティーに属している人"にはこういった無意識のうちに抱かれている偏見なようなものがありますよね。
もちろん、「黒人は身体能力が高い」と言うのも無意識の偏見です。
多様性に対しては上記の説明でなんとなくお分りいただけたかと思います。
集団の中でマジョリティ(多数派)、マイノリティ(少数派)と差別化というか、区別をを図るのは別に悪いことではないとは思いますし、そうした区別が双方にとってメリットを生み出すマネジメントになることはあると思います。
が、この多数派vs少数派論争を個人に当てはめて何かを理解しようとするのは少し無理があります。
これは私の見解です。
チャートにしてみます。
個性を持っている→社会の中では少数派に当たる
この矢印の中に色々な判定(ジャッジ)があり、マイノリティと簡単に片付けられていて、その判断材料がアンコンシャス・バイアスがである。
というのが、世間一般で騒がれている現在の価値観に対する論争だと私は考えています。
多様性で語る上で、様々な人材と位置付けられ、他者と異なる性質を持つ人に対して当てられている視点が2つあると思うんです。
1つ目が、社会が作りだした視点
「A型の人は、几帳面だ」
このように誰かが言い始めて世間に定着したイメージのようなものがいい例だと思います。
「黒人は身体能力が高い」というのはきっと黒人以外の人々が抱き、発信した間違ったイメージで、これにあたります。
多様な人々の特徴からオートマチックに、無意識にあてはめるイメージであり、
人々が自然に持ってしまう視点です。
「オタクはコミュニケーション能力が低い」
私の兄はオタクですが、コミュニケーション能力は非常に高いです。
2つ目は、特徴・性格・個性を人格と間違える視点
特徴とは、他と比べて特に目立つ点です。
個性はその人の性質で、特徴ともいえるでしょう。
人格はその人の心理的特徴ではありますが、その定義はあらゆる分野で異なるようでその時々によって意味合いは違ってくるかもしれません。
私が言いたいことは、
心の部分からくる行動について、その特徴や性格から判断することはできないということ。
人格をどう判断するかというのはその状況下における行動がどうか、であり
道徳的な部分が少なからずあると思います。
↑正直何をいっているかわからないですが、
簡単にいうと、
社会的なマナーから逸脱する若者がいるとします。
会社でも、「飲み会を平気で欠席する新入社員」一昔前はこれってどうなの?と物議を醸していましたし、「最近の若者は〇〇ができない」というような社会規範的なものに対して何かを判断するケースでは、
『この人は〇〇だから、××ができない』
は合っているようで合っていないということです。
社会が作り出している視点と類似することにはなりますが、
これは道徳的な部分やその人が生きてきた時代の規範や環境が作り出すギャップのように感じるので、少し違う形として分けてみました。
では、これらの視点(メガネをかけられて)でみられる異なる性質を持つ人々をマイノリティと名付けて区別しているわけですが、ダイバーシティを語るならば、それは必要ないのではないかという観点です。
この下線が引かれている部分が私にとって少し新しかった、改めて実感した部分です。
社会的な視点というのを実際の当事者側で考えてみると、
「どう見えるか」
「どう見られたいか」
「どう在りたいか」
という3つの言葉で表現できるような気がします。
これは、例えばLGBTの人たちで
「マツコデラックス型」の人は、体は男性だが社会的には女性として生きている
「はるな愛型」の人は男性の体で生まれたが、体も社会的な性別も女性として生きる
「クリス松村型」体は男性で社会的にも男性、でも男性が好き
「カズレーザー型」体は男性で社会的にも男性、男性と女性両方を愛せる
これらの4人のタイプを上記の3つの言葉で考えてみると、見えてくるものがあると思います。
逆にこれらの4人が、自分を表現している様子が行動で見えるという逆説的な理解もできると思います。
これは性的指向だけに当てはまることではないですよね。
この区別の先にあるのがアンコンシャス・バイアスで、
例として、「体は男性だが社会的には女性として生きている」人はマツコデラックスみたいな人なんだ!という間違った解釈です。
あくまで、「マツコデラックスが ああいう人」なだけで、彼女は彼女の人生で色々なことを経験して形成されたパーソナリティ、人格なわけで全ての人がああいった感じの人ではないとしっかりとその人を見ないと何もわかりません。
このカテゴライズの無意味さといったらもう・・・。
無意識の偏見は無意味
リズミカルに覚えてください。
この無意味、えっ、何に対して?
その人をしっかり見つめないとその人は見えてこない。
とさっき述べた一言が多様性を語る上で最も大切なことだと思います。
ここから大事な部分です。
まず、自分は社会で〇〇という部類に属すんだ、という自己認識は必要ないです。
私は私、それだけでいい。
人をみるときはまず「知る努力」をすること。
無意識に人を判断してしまうことは少なからずありますが、まず知る工夫や知る努力をして、その人を理解するべきであると思います。
これからの時代を生きる子どもたちにはなおさら教えてあげなければいけないと思います。が、大人はみんなそんな多様性の中で育ってきていませんよね。私も日本に育って、目立った多数派の中にいてあまり実感することはありませんでしたし、そもそも考えもしませんでした。
知ることの大切さを教えてくれたのは紛れもく環境でした。
私もアメリカにいた時は人種的には少数派で、見た目は珍しい方でしたね。
でも、アジア人として私をみる人もいればタニムラとして見てくれる人も多くいました。話できく人種差別は見た目での判断→蔑むみたいな単純なもので、実際にはとっても単純なものでした。
でも、そのタニムラを知ろうとしてくれる人たちは差別はおろか、多様性にも強い人たちでした。
もちろん、その人格で「この人ないな〜」っていう会話はあります。
でも、もっとシンプルなわけのわからない理由で物事を判断することは人に対してだけでなくありませんでした。
知る術を持つこと、これはしっかりと教えてあげないといけないことです。
子育ても一緒だと思います。
「うちの子は〜〜だから」
「子育てはこうするんだ」
というのも実はあんまり知ろうと思って行う行動が省略されている可能性は大いにあります。
特に
「発達障害だから〜」
といった、診断があたかも病名のように捕らえられているケースもあると思います。
メガネをかける前に知ろうとするその1ステップが非常に重要になってきますよね。
多様性という今の社会の流れを考えていくと、
子どもに対してや他者に対して持つべき心構えみたいな基礎的な部分に共通点を感じます。
結局は何事にも言える、必要とされる人格みたいなものが見えてきますよね。
少し文化人類学のようなお話をしましたが、
結局大切なことは、こういう私が実際にした経験のようなものをたくさんするために社会があればいいし、みんなが活躍できる環境をみんなで作ってあげればいいだけのことですよね。
子どもたちへは特に、日々変化する環境の中でたくさんのことを経験して、たくさんの大人から色々なことを学んで成長していけばいいだけのことです。
もし、社会の中で「コイツなってねぇなぁ〜」って人がいたら、「コイツはダメなやつなんだ」ではなく「あぁ、経験してこなかった子なんだ」と思って色々なことを教えてあげればいいのではないでしょうか。ダメなやつではなく、「大きくなった子ども」というパターンも大いにあります。それは大人に責任がありますよね?と私は思います。
学校っていい環境ですよね。
っていうことも教えてあげないとダメなんだなと思います。
大人が20人〜もっといて、子どもも何百人もいて、その分勉強できることがたくさんありますよね。
だからこそ、まず他者を認めることや知る力を教えてあげて、色々なことをしっかり吸収してもらえればいいと思います。
今日もバスケと全く関係ない記事になってしまいましたが、
昨日の新たな出会いと経験を少し文章にしてみました。
でも結局、子どもの育成シーンと同じという結論とバスケも結局は子どもたちが多様性を学ぶ場所であればいいと思います。こういった結びで今日は勘弁してください!
みんながみんなに愛される世の中、作ってこ〜〜〜